岡崎宿で少し休憩しすぎたために、出発が遅くなってしまったブロンプトン東海道五十三次の旅7日目。
ゴール予定の名古屋までは池鯉鮒宿、鳴海宿、宮宿の3宿場をクリアしないとダメなんですよね。やはり連日の疲れが出ているのですが、ここは頑張って進みたいと思います。
目次
ルート案内「15kmのロングコース」
岡崎宿から池鯉鮒宿の間は、15kmもあるロングコースです。平地なので、すごく走りやすいのですが、距離があるのでペース配分は大切に。
見所は来迎寺の一里塚。片方が建物の裏にあるのでわかりづらいですが、左右現存する一里塚です。夕暮れ時に写真を撮ったので、歴史の重さを感じる一枚になっています。
岡崎宿を出発
岡崎宿を出たところにある突き当たり・・・を少し過ぎてしまったんですが、道標がありました。
戻って撮影。結構新しいですね。観光用に立てたんでしょうか。
どうも、このあたりがドラマのロケ地だったらしく、近くには宮崎あおいちゃんの手形があるらしいですw
矢作川の川沿いに出ると、八丁味噌の工場が。さすが愛知県。
川沿いから国道1号線に合流。矢作橋を渡ります。
橋の上から矢作川を一枚。結構大きな川ですね。軽巡洋艦矢作はこの川からつけられたんでしょうか。
橋の反対側に石像が。
蜂須賀小六と日吉丸(豊臣秀吉)が出会った時のエピソードを元にした石像だそうです。どうも事実ではなく、江戸時代のベストセラー絵本太閤記の一場面とのことでした。
浮世絵 岡崎宿
岡崎宿の浮世絵は、先ほど渡った矢作橋と岡崎の城下町です。
現在はこんな感じです。昔の橋は少し南にかかっていたようですが、現在も同じような風景ですね。
国道1号線と合流
矢作橋を渡ったところで矢作の一里塚があるのですが、そこはちょっとスルーして、先を急ぎます。矢作川を越えてから旧東海道は住宅街を通り、ここで1号線と合流します。
ここの国道1号線は、平地で路面状態もいいため、かなりスピードアップできます。
分岐し旧街道を走る
しばらく国道1号線を走るとマクドナルドの手前で分岐。松並木のある旧街道へと進みます。
住宅街になるのですが、松の保存状態が非常にいいです。街道の雰囲気がありますね。
蔵のある大きなお屋敷がある街並みに。少し古い集落のようです。
尾崎の一里塚と記念碑だらけの神社
このあたりで一里塚の跡があるので、これか!っと思って撮影したら違いました。どうも用水路を作った治水関連の記念碑らしいです。
次に熊野神社が現れます。このあたりは記念碑がやたらと多いので、このうちのどれかが一里塚と思って探してみました。
まず見つけたのが予科練の碑。
どうも戦時中、この辺りに飛行場が作られていたようです。訓練施設として利用される予定だったようですが、飛行機乗りとして人を集めはしたものの飛行機がなく、整備兵や本土決戦用の陸上部隊に回されたようです。生き残った人が多いからか石碑も立派ですね。
碑文の内容も訓練はしたけど終戦になったって書いてますね。
実際にあった飛行場の地図もありました。
戦争で亡くなった方を慰まれる英霊招魂碑も立派です。
あまり写真を撮りませんでしたが、この旅では先の大戦にまつわる記念碑をたくさん見ました。亡くなられた方のご冥福を祈るばかりです。
鎌倉街道の説明看板です。
愛知に入ってからちょくちょく見る鎌倉街道という文字。どうも江戸時代から、東海道より古い街道を鎌倉街道と呼ぶようになったようです。京都から鎌倉までつながる道で六十三ヶ所の宿駅があったんだそうです。今度調べてみたいと思います。
鎌倉街道の説明看板の下に石が、と思ったら、これがお目当ての一里塚跡の碑文。危うく見逃すところでした。
永安寺 雲龍の松
一里塚跡からしばらく進むと、龍のように横方向に伸びた立派な松が現れます。あちこちに木の柱がありますが、これがないと支えきれないようです。
ここは永安寺というお寺なんですが、元はこの地域の庄屋・柴田助太夫の草庵だったそうです。
地元の窮状を訴えて宿駅などでの労役・助郷を免除してもらうために直訴して死罪にされましたが、幕末までこの地域での労役は免除されたそうです。そこで地元の人は感謝して、彼の草庵をお寺にしたそうです。
ちなみにこの松は助太夫が生きていた頃からここにあったそうです。今もこの地域を守っているのでしょうか。
旧街道を進む
岡崎を過ぎてからの旧東海道は松並木もそれなりに残っていて、生きている街道という感じがします。
信号機の下の方に古い道標があります。
江戸時代、元禄の頃に立てられた道標で、在原業平ゆかりお寺と言われる無量寿寺への案内板だったようです。
来迎寺の一里塚
しばらく進むと次に現れるのは、こちらの来迎寺の一里塚です。なんと現存してます。
片方だけ現存しているのかなと思ったんですが、両側に現存と書かれています。パッと見えなかったんですが・・・
反対側に建っている公民館の上を見たら、大きな木が頭を出しています。
裏側を見てみるとキレイに一里塚が残っていました。
一里塚を通り過ぎてから、きれいに残っている両側の一里塚を一枚の写真に入れてみました。昔の旅人はこうやって距離を感じていたんでしょうね。
再び旧街道へ
上の道は衣浦豊田道路。自動車会社の工場をつなぐ道でしょうか。やっぱり好調な企業があると地元のインフラ整備が進みますね。
衣浦豊田道路の脇に道標がありました。何の道標かは書かれていませんでしたが、観光案内地図には元禄の道標と書かれていました。
先ほどの高架をくぐって進むと、再び松並木の残る旧街道になります。池鯉鮒宿の松並木と地図では書かれていたので、まもなく次の宿場ですね。
前の道が国道1号線、ここを横断するとようやく次の宿場です。
池鯉鮒宿に到着
こちらが池鯉鮒宿の江戸見附。
池鯉鮒と書いて「ちりゅう」と読むそうです。近くに知立神社というところがあり、そこの池に鯉や鮒がたくさんいたことから付けられた名前のようです。ちなみに現在は知立市という読みやすい名前が使われています。
浮世絵 池鯉鮒宿
ここの浮世絵は宿場内にある馬市の様子です。真ん中に一本の松があって談合松と呼ばれたそうです。
現在の風景はこんな感じです。面影のあるところはありませんが、現在の馬・自動車を止める駐車場がありました。
宿場内はこんな感じです。前の道を横断したところにある細い路地が旧東海道です。
地図ではこの辺りが本陣跡なんですが特に目印らしいものはないです。まっすぐ行くと東海道は突き当たるんですが、そこに石の記念碑があります。
道端にある記念碑。急いでいたというのもあると思うんですが、ここで宿場を感じられるものはこれだけでした。まあこういうところもありますよね。
宿場内を進むと中央分離帯で先に進めなくなっています。昔は横断できたんでしょうね。後からガードレールが建てられた雰囲気があります。とりあえず迂回です。
この辺りが池鯉鮒宿の京方見附。
ここで時刻は18時半。空も徐々にオレンジ色に。次の鳴海宿、そしてゴールの宮宿にたどり着くのは夜になりそうです。
疲れたカラダに鞭を打って、次の宿場へと向かいます。
つづく
“東海道五十三次day7-⑥池鯉鮒宿から鳴海宿まで”
“東海道五十三次day7-④藤川宿から岡崎宿まで”
“東海道五十三次day7まとめ・距離・時間・ルート・予算”
“東海道五十三次の旅「日本橋から京都」全行程まとめ!”