品川宿から川崎宿までの間は、ほぼ平地です。最後に多摩川という難所があるのですが、現在では橋がかかっているので楽勝です。間になる歴史的な地域を眺めつつ、折り畳み自転車ブロンプトンで進んで行きました。
目次
ルート案内「10kmのフラットな街道」
品川宿〜川崎宿間は、約10kmの道のりです。大きな国道15号線と旧道の細い道を行き来するので少し複雑なルートになりますが、非常に道がフラットなので走りやすいです。多摩川は橋のサイドに歩行者用の道がありますので、自転車はそちらを走行しましょう。史跡の見どころとしては、鈴ヶ森の刑場、滋賀に本店があった梅屋敷の薬屋跡などです。ただ現存する建物などはありません。
まずは品川宿を出発
まず品川宿を出発します。しばらくはこういう細い住宅や商店が並んだ道のりを進みます。
品川宿の周辺とは異なり、商店が少なくなって住宅街になっていきます。
罪人を送る家族が泣いた泪橋
しばらく進むと小さな橋が見えてきます。何気ない橋ですが、ここにもドラマが。
正式な名前は浜川橋ですが、泪橋と呼ばれているそうです。この先に鈴ヶ森の刑場があるのですが、そこに送られる罪人を、ここで家族が涙を流しながら見送ったというエピソードからこういう名前がついたそうです。ちょっぴり悲しくなる橋の名前ですね。
ちょっと寄り道して浜川砲台跡へ
泪橋から少し進んだところに「浜川砲台」と書かれた大きな看板が。さっきから台場横町などを見ていたので、一度砲台あとを見ようと思い、寄り道することにしました。
街道から少し進むとすぐに砲台跡があります。現在は公園になっていて、レプリカでしょうか立派な大砲が置かれています。
説明文によると、ここには土佐藩の藩邸があったらしく、東京湾守備のために幕府の許可を得て大砲を据え付けたそうです。坂本龍馬もここにいたようですね。龍馬は剣術修行で江戸に来たんですが、佐久間象山からも色々と教えを受けていたらしく、砲術関連の知識もあったそうです。
そして再び東海道へ
そして再び東海道に戻ってきました。この辺りは自転車の走路が青色に指定されています。すごくわかりやすいですね。
鈴ヶ森の刑場跡
この細い道の端、国道15号線との合流地点のそばに突然南無阿弥陀仏と書かれた石碑が現れました。ここが鈴ヶ森の刑場跡です。
鈴ヶ森の由来は、近くの神社に振ると音がする鈴石というものがあったからだとか。ここに刑場が設置された理由は、江戸の治安維持と見せしめのためだったと言われています。好きな人に会いたいために火をつけた八百屋お七やねずみ小僧が処刑されたのもここ。鬼平犯科帳の鬼平の部署が、確か火付盗賊改でしたよね。火つけはたくさんの人の命や財産を失わせてしまう大事件だったため極刑にさせられたんです。
少し負のエネルギーを感じる場所でしたので、早々に立ち去ることにしました。
国道15号線と合流
細い旧街道はここで一旦終わり。大きな国道15号線と合流です。東海道ってずっと1号線沿いを走るもんだと思ってたんですが、違うんですね。
とはいえ、少し国道を走ると、平和島の少し手前で旧道へと分岐します。写真正面左の細い道が東海道です。
ここも小さな商店街になっていて、地面がレンガのため、少し走りずらかったです。たまたまお祭りをしていたため、歩行して進むようお願いされました。
この商店街を抜けると、再び国道15号線と合流です。国道を作るときに人口密集地や集落を避けて作っています。この先、こういう商店街を何回も見ることになりました。ちなみにこの辺りに大森の一里塚があったそうですが、特に記念碑などを見つけられませんでした。
梅屋敷前に到着
大きな国道15号線を軽快に南下していると前方に少し大きな公園が見えてきました。ここが梅屋敷と呼ばれるところです。
ここは道中常備薬の和中散という薬を販売していた久三郎さんが、庭園に梅の木を集め茶屋を開いた場所だそうです。蒲田の梅屋敷として浮世絵にも残されているらしいのですが、現在は公園ですね。そしてこの和中散という薬屋の本店が、なんと滋賀県。この終盤に出てきます。
“東海道五十三次day10-⑥石部宿から草津宿まで”
明治天皇もこちらでご休憩されたようです。これから東海道のあちこちで見る明治天皇御幸の最初の碑文でした。
蒲田から多摩川前の六郷へ
京急の蒲田駅です。大きなターミナル駅なので、京急にしてはめっちゃキレイな駅になっています。
この辺りも大きな国道15号線をまっすぐ南下です。大きな道は舗装もキレイで走りやすいです。
この辺りが六郷と呼ばれている地域で多摩川の北側、東京の端になります。ここを渡ると神奈川県、そして、すぐに川崎宿です。自転車で自動車の道を行くのは少し怖かったので、脇にある歩行者用の道を進むことにしました。自転車は車道を走るのが基本ルールですが、このあたりは柔軟に対処したいと思います。
浮世絵 川崎 六郷渡舟
ここで浮世絵の世界をご紹介します。川崎宿はこの向こう岸なのですが、川崎で描かれたのは東京側から見た景色になります。ここには橋がなかったため渡し船で人々は往来していました。向こう岸に見えるのが川崎宿です。
現在は、多摩川沿いのグランド、その向こうに川崎の街が見えます。当時の面影はほとんどありませんが、行き交う人々の多さは今も変わりませんね。
多摩川を渡り川崎へ
それでは橋に向かいます。車道の横に道がいつていて、自転車や歩行者はこちらを通ります。
橋の上から一枚、少し雲が出てきましたが、まだまだ快晴です。川にほとんど水がなかったんですが、本当にこんな川があふれたりするんですね。自然っていつまでも人間の手に負える相手ではないんだと実感します。
橋を渡ると旧街道はこちらという案内看板が。迷う人が相当いるようですね。
案内看板どおり進んだ脇に、六郷の渡しについて書かれた看板がありました。万年屋さんという旅籠が儲かっていたようです。そしてこの先が川崎宿になります。
川崎宿に到着
橋を渡ったところが、川崎宿の江戸見附。この写真のあたりからが宿場町です。
資料館のようなところも含めて、街全体で宿場町をアピールしているようです。案内看板もしっかりしていて見所もちゃんと書かれていますね。ただ時間がなかったので、今日は本陣跡で写真を撮るだけかなと思いました。
本陣跡2カ所で記念撮影
ひとつめが田中本陣あとです。ちょうどこの辺りにあったそうで、いまは看板だけになっています。宿場町を維持するのは相当お金がかかるらしく、この地域の名主で本陣の当主も兼ねた田中さんは、六郷の渡しの利権を求めて勝ちとり、宿場の財政を立て直したそうです。
もうひとつが佐藤本陣跡です。ビルの窓にパネルが貼ってありました。六甲おろしの作詞を担当された作詞家・佐藤惣之助さんは、こちらがご実家だそうです。
そして川崎宿の端へ
この辺りが川崎宿の端、京方見附跡です。
看板によると、幕末、この辺りは外国人の遊歩区域に指定されていたため、外国人警護の番所があったそうです。尊王派の奴が外国人を狙ったりしますからね。ここが第一の番所で保土ケ谷宿までに19カ所も設けられていたそうです。隣の木の板が、関札。宿場に宿泊する大名が書かれた札を、このように出していたそうです。
川崎宿はさらっと流しただけになりましたが、初日は行けるところまで行きたかったので、すぐに出発。神奈川宿を目指します。
つづく。
“東海道五十三次day1-④川崎宿から神奈川宿まで”
“東海道五十三次day1-②日本橋から品川宿まで”
“東海道五十三次day1まとめ・距離・時間・ルート・予算”
“東海道五十三次の旅「日本橋から京都」全行程まとめ!”