日本橋から川崎宿まで順調に進んだブロンプトン東海道五十三次の旅day1。川崎宿は軽く散策するだけにして、次の神奈川宿へと急ぎます。
目次
ルート案内「最後以外はフラットな10kmのコース」

川崎宿から神奈川宿の間は、暴れ川で有名な鶴見川を渡るくらいで、基本はフラットなルートです。ただ神奈川宿が高台にあるため、最後は登りになります。国道よりは旧道を通ることが多いため、交差点などは要注意。最後の横浜近くは大きなトラックが走るので、夕方以降走る場合は安全のためにリアライトをつけた方がいいでしょう。史跡の見どころは、現存する一里塚と、生麦事件跡、そして神奈川宿内にある龍馬の妻が働いていたお店ですね。
川崎宿から出発し、旧街道を進む

川崎宿を出発してまっすぐ旧街道を進みます。路面が状態が少し悪いのですが、順調に進んでいけます。
芭蕉の歌碑

しばらく進むと看板が。松尾芭蕉がここで歌を詠んだようです。句箱が設置されているので、この辺りの人々は俳句が好きなんでしょうか。

句碑があったんですが、何書いてあるのかよくわからなかったんですよね。あとで調べました。
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」
上方へと旅に出る芭蕉が、ここまで見送りにきてくれた弟子の前で詠んだ歌だそうです。

芭蕉の句碑からまっすぐ進むと八丁畷の駅につきます。ここで右の遮断機を渡り線路の向こう側へ。
初の一里塚 市場一里塚

先程の遮断機からしばらく進んだところに、初の現存する一里塚が現れます。それが市場一里塚です。

説明文によると現存しているのは、塚の部分。根元の土の部分だけのようですね。上に育っていた木は昭和初期まであったようです。
一里塚は地元の人たちのその場所への思いによって現存するかしないのかが決まってくるようです。やはり宿場といい、幕府から強制されたところもあるため、かなりの負担にもなっていたと聞きます。
こうして大切に残す心を持っていた地域の人々には、尊敬の気持ちしかありません。
暴れ川に架かる鶴見川橋

市場一里塚から少し南に下がったとこに大きな橋が見えてきます。これが暴れ川で有名な鶴見川にかかる鶴見川橋です。

橋の袂に解説板があったのでそちらを見てみます。

ここの橋は1601年、徳川家康が東海道を整備しはじめた時には架けられていたそうです。鶴見川は暴れ川として有名で、なんども流されては架け直されたそうです。

橋の周辺は開けていて風光明美な場所として知られていたそうです。そのため多くの歌人たちがここで歌を詠んだようですね。天気がいいと、いまでも富士山が見えたりするんでしょうか。
橋を渡ると警備の関門跡が

橋を渡るとすぐに石碑が立っています。

解説文を読むと幕末に外国人を襲う輩がいるので、それを取り締まるためにここに関門を設けたようです。橋は比較的少ないので、かなり重要な拠点だったようです。品川宿で読んだ高杉たちが攘夷をしようとしたという文章が、ここで思い出されてきました。
京急の鶴見駅を抜けて、さらに南へ

住宅街から少し街中に入ってきました。目の前が京急の鶴見駅になります。

京急のガード下をくぐり抜けて向こう側へと進みます。

進んだ先は商店街になっています。ここもお祭りをやっているようで、自転車は歩いて通行してくだいと言われました。

商店街を抜けると普通の住宅街になりました。この道をまっすぐ南へ進みます。

国道15号線を横断し、さらに進んだのですが、まあ普通の住宅街ですね。それ以上でもそれ以下でもない道が続きます。
生麦事件の現場

調子よく進んでいると左手の住宅に何やら看板のようなものがつけられています。

どうやらここが生麦事件の現場のようです。
生麦事件は、薩摩の大名行列を外国人が馬で横切ったため、怒った護衛の藩士が外国人を切ってしまった事件です。これが原因で薩英戦争が起こるんですが、そんな重要事件があった場所が、意外にもこんな住宅街の真ん中にあるんですね。

事件現場から少し進んだところに、生麦事件の記念碑が作られていました

ここでは英語でも事件について解説されています。

ちゃんと事件があったところと現在地の地図、資料館の場所が書かれた地図がありました。なぜこんな風に別れているのか少し気にはなりますが、住宅街ですからね。色々あるんだと思います。
国道15号線を神奈川まで南下

生麦事件の石碑からわずかに進むと、国道15号線との合流です。再び大きな道を進むことになります。

上の写真で見えていた高架をくぐると、すぐ左にキリンの工場が見えます。生麦という土地だけにビール作りにはいいんでしょうか。あとで聞いたところ、ここはビールや料理を楽しめる施設があるそうですよ。

あとはひたすら国道15号線を南下します。路面の状態もよく快調に進めます。

国道と横の道の路面の違いお分かりいただけるでしょうか。いかに整備されているかがわかる境目ですね。

少しずつ大きな街の匂いを感じる風景になってきました。平地なので、かなり速く進むことができます。
神奈川宿に到着

このあたりが神奈川宿の江戸見附跡です。宿場の匂いは全く感じませんが、神奈川宿に到着です。
神奈川宿の本陣跡

国道から少し脇道に入ったところに神奈川宿の本陣跡の記念碑があります。

ざっくり神奈川宿と本陣について書かれていました。
国道15号線と分岐し、東海道は西へ

ここから国道15号線を横断。ずっと南へと進んできた東海道は、ここから西への進路に変わります。

この辺りかなりの交通量でなかなか渡れません。近くに歩道橋があったので、自転車を担いで渡りました。

宿場町跡には必ずあるお馴染み商店街です。ここの南に横浜の繁華街があるため、この辺りは寂れた感じがしました。

ずっと平地を進んできましたが、ここで品川以来の上り坂です。比較的緩やかですのでブロンプトンでも登れます。

登りきったところでJRを横断する橋になります。ここがこの旅はじめての国道1号線ですが、すぐに旧街道の細い道へ。
浮世絵 神奈川 台之景

この高台付近にあった看板です。よく見ると浮世絵と東海道中膝栗毛の一文が書かれた記念碑でした。

実際の絵はこんな感じですね。横浜の港と並ぶ宿場町のお店です。ただこれと同じ感じで撮影できる場所は現在ありません。

似たような角度で撮影すると、こんなところかなと思います。当時の趣はほとんどありませんね。上の写真に写っている田中屋さん。坂本龍馬の妻おりょうさんが働いていたところだそうです。現在も料亭として営業中です。
神奈川宿の出口へ

田中屋さんの前を過ぎると、さらに傾斜が厳しくなります。周りの建物は新しいですが、道の狭さなどは旧街道といった感じですね。

登りきったところが橋になっています。ここが神奈川宿の京方見附跡です。
本当はここで初日の旅を終える予定でしたが、想定よりも早く到着したため、日没まで時間が残っていました。地図を確認すると次の保土ケ谷宿まで行けそうです。すぐに自転車のペダルに足をかけ、次の目的地へと向かいました。
つづく
“東海道五十三次day1-⑤神奈川宿から保土ヶ谷宿まで”
“東海道五十三次day1-③品川宿から川崎宿まで”
“東海道五十三次day1まとめ・距離・時間・ルート・予算”
“東海道五十三次の旅「日本橋から京都」全行程まとめ!”